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ふれることのちから

母が学んでいるタッピングタッチ を、先日やってもらった時のこと。

背中に添えられる掌の温かさにおどろいて。ああ、手当てって本当にすごいなぁ、とあらためて感じた。

手のひらってこんなに力強く誰かを支え、励まし、癒すことができるんだなぁ、と。

傍らにいてくれることの安心。

「援助者」って時に、「被援助者」の力を奪ってしまうことがあると私は思うのだけれど、「伴走者」はもっと柔らかく傍らにいて存在を贈りあいながら認めあえるもの、だと思う。タッピングタッチは力まずに、傍らでたたずみながら温かさを贈ってくれる伴走者、そんな感じ。

きっとみんな、ふれあいたい、認め合いたいもの、なんだと思う。小さい人も、おとなたちも。
こころに、身体にそっと、優しく触れ「そのままのあなたでいいよ」って、伝え合うこと。

そういう、関係性が回復していくといま社会の中で問題になっているようなこともいろいろと解けていくんじゃないかなぁ。今の時代、こころも、からだもなんだかないがしろにされている気がして仕方ないのです。

皮膚感覚で温かさを伝えることはきっと、時に、言葉以上にそのひとのこころをひらいて、優しく柔らかくすると思う。

私も、もう少し時間ができたらタッピングタッチ学んでみたいな。

 

そんな、ふれること、傍らに寄り添うことの温かさを綴った詩が「わたしにふれてください」。

いろいろなところで、これまでも紹介してきたけれど、大好きな詩なのでここでもまた♪
少し長いのですが、ぜひ、読んで感じてみてくださいネ。
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わたしにふれてください

もしわたしがあなたの赤ちゃんなら
どうぞ、わたしにふれてください。
今までわたしが、知らなかったやさしさを
あなたからもらいたい。
あふろにいれてください、
おむつを替えてください
おっぱいをください
きゅっとだきしめてください、
ほおにキスしてください
わたしの体をあたためてください
あなたのやさしさとあなたのくれる快楽が
わたしに安心と愛をつたえてくれるのです

もしわたしがあなたのこどもなら
どうぞ、わたしにふれてください
いやがるかもしれないし、拒否するかもしれないけど、
何度もそうしてください
わたしがどうしていやがるかわかってほしいから
おやすみなさい、と抱きしめるあなたの腕が
わたしの夜を甘くしてくれる
昼間にみせてくれるあなたのやさしさが
あなたの感じる真実を伝えてくれる

もしわたしがあなたの思春期のこどもなら
どうぞ、わたしにふれてください
もう大きくなったのだからなんていわないでください
あなたがわたしにふれるのをためらうなんて
思いたくない
あなたのやさしい腕が必要です
あなたのおだやかな声をききたいのです
人生は困難なもの、とわかったいま、
わたしの中の小さな子どもがあなたを必要とするのです

もしわたしがあなたの友達なら
どうぞ、わたしにふれてください
あなたがだきしめてくれると、
わたしはあなたにとって大切な人だとわかるから
あなたのやさしさが、おちこんでいる私も、
かけがえのない存在であることを
思い出させてくれるから
そしてひとりではない、と思い出させてくれるから
わたしにやすらぎをくれるあなたのありよう、
それだけがわたしが信じられるもの

もしわたしがあなたのセックスの相手なら
そうぞ、わたしにふれてください
あなたは、情熱さえあれば、十分と思うかもしれない
でも、あなたの腕だけが、わたしの恐れをとかしてくれる
あなたのやさしくおだやかな指先をください
あなたにふれられて、わたしは愛されているということを
思い出すことができる
わたしはわたしなのだ、ということを
思い出すことができる

もしわたしがあなたの大きくなった息子なら
どうぞ、わたしにふれてください
わたしには、
抱きしめるべきわたしの家族はいるのだけれど
それでも、傷ついたときには
おかあさんとおとうさんにだきしめてほしい
おとうさん、あなたといるとすべてが違ってみえる
わたしが、大切なわたし、であると
思い出すことができる

もしわたしがあなたの年老いた父親なら
どうぞ、わたしにふれてください
あなたが小さかったときに
わたしがあなたにふれたと同じように
わたしの手をにぎり、わたしのそばにすわって
わたしを力づけてください
わたしの疲れた体によりそい、あたためてください
わたしは随分しわくちゃになってしまったけれど
あなたのやさしさに力づけられる

どうぞ,何も恐れないで
ただ、わたしにふれてください

(—フィリス・K・デヴィス、原作者Phyllis K.Davis、翻訳者三砂 ちづる)

2015-06-16 | Posted in blogNo Comments » 

 

【追悼】詩人 長田 弘さんに感謝をこめて

大好きな詩人、長田弘さんが亡くなった。生活や日常に限りない愛情と温かなまなざしを持ち続けられた方だと思う。

初めて長田さんの詩に出会ったのは「ふろふきの食べかた」というタイトルの詩。

「自分の手で、自分の
一日をつかむ。
新鮮な一日をつかむんだ。
スがはいっていない一日だ。
手にもってゆったりと重い
いい大根のような一日がいい。

それから、確かな包丁で
一日をざっくりと厚く切るんだ。
日の皮はくるりと剥いて、
面とりして、そして一日の
見えない部分に隠し刃をする。
火通りをよくしてやるんだ。

そうして、深い鍋に放りこむ。
底に夢を敷いておいて、
冷たい水をかぶるくらい差して、
弱火でコトコト煮込んでゆく。
自分の一日をやわらかに
静かに熱く煮込んでゆくんだ。

こころさむい時代だからなあ。
自分の手で、自分の
一日をふろふきにして
熱く香ばしくして食べたいんだ。
熱い器でゆず味噌で
ふうふういって」

(「食卓一期一会」より)。

 

なんだか、あたたかゆげに包まれたような。ほっこりやさしい気持ちになったことをずいぶん経ったいまでも覚えている。

なんというか、生きていくうえで大切な小さな日常のリアリティを、平易な言葉でやさしくあたたかく届けてくれる方だった。そして、誰よりもことばのちからを知り、ことばの持つ力を信じさせてくれる人だった。

 

そして晩年に出版された「詩、ふたつ」は、「花をもって会いにゆく」と「人生は森の中の一日」という2編をクリムトの樹木と花々とともにおさめた詩画集。

人生のなかでときに訪れる悲しみに、静かにそっと寄り添う、とてもやさしくあたたかい詩画集で、私の父が逝ったとき、母に贈った詩画集でもある。

愛する人たちを見送った人々に寄り添う素敵な言葉はいま、詩人の詩を悼む私たち自身の想いに重なる。

 

 

いつの日か、大きな木の下に花をもって会いに行こう。

感性をゆたかにひらき、いつも傍らにあるような言葉を贈り続けてくれた詩人の魂に。

そして、伝えたい。あなたのように、優しくしなやかであたたかで。でも凛として力強い言葉を紡いでいきたい、と。

長田弘さん、たくさんの美しい言葉の花束をありがとうございました。

 

 

「花を持って、会いにゆく」(「詩ふたつ」より)

春の日、あなたに会いにゆく。あなたは、なくなった人である。どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。きれいな水と、きれいな花を、手に持って。

略…

死ではなく、その人がじぶんのなかにのこしていった たしかな記憶を、わたしは信じる。

言葉って、何だと思う?けっしてことばにできない思いが、ここにあると指さすのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、語らうことができると知ったのも、死んでからだった。

春の木々の 枝が競い合って、霞む空をつかもうとしている。

春の日、あなたに会いにゆく。きれいな水と、きれいな花を、手に持って。

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「人生は森の中の一日」(「詩ふたつ」より)

何もないところに、木を一本、わたしは植えた。それが世界のはじまりだった。

次の日、きみがやってきて、そばに、もう一本の木を植えた。木が二本。木は林になった。

三日目、わたしたちは、さらに、もう一本の木を植えた。木が三本。林は森になった。

森の木がおおきくなると、おおきくなったのは、沈黙だった。

沈黙は、森を充たす 空気のことばだ。

略…

やがて、とある日。黙って森をでてゆくもののように、わたしたちは逝くだろう。

わたしたちが死んで、わたしたちの森の木が 天を突くほど、大きくなったら、

大きくなった木の下で会おう。わたしは新鮮な苺を持ってゆく。きみは悲しみをもたずにきてくれ。

そのとき、ふりかえって 人生は森の中の一日のようだったと言えたら、わたしはうれしい。

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2015-05-18 | Posted in blogNo Comments » 

 

「うまれる」自主上映会開催報告

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5月10日の母の日に映画「うまれる」の自主上映会を開催しました。

最終的に、100名を超える皆さま(おとな100名+子供たち22名)の来場を頂きました。

ご来場いただいた皆様、お手伝いいただいた皆様、告知などにご協力くださったみなさまに
あらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。

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はじめは、1番大切な家族に見てほしいという想いから。そして、自分の住まう地域の方、一人でも多くの方に見ていただきたいという想いで初めた人生初の自主上映会。なにか、自分でもよくわからない、大きなものに突き動かされたような気がします。

今回やってみて感じたのは、決断して行動に移すと不思議となんというか道が開かれていくということ。動いてみることで出会えた方がたくさんいらして、素敵なご縁を結んでいただきました。

いままで蒔いてきた種が、時間を経て今回のタイミングでふと芽を出してきてくれた。そんな感じです。ご縁とタイミングって、大事なんだなぁと、あらためて。

母の日に自主上映会を決めたのは、母の日はいのちと、感謝の気持ちの交換の日だと思うから。「うまれてくれてありがとう」「生んでくれてありがとう」。

シンプルに、その思いを伝え合う日、だと思うのです。

私たちはみな、おかあさんからうまれてきていまここにある。
うまれることも、いまこうして元気で毎日をすごしていることも、ものすごくたくさんの奇跡に支えられたスペシャルなこと。そんなことを思い出すゆたかな時間を過ごしていただけたらいいな、と思いました。

自分も妊娠出産を経てあらためて、いのちはとっても脆いけど、同時にとても強くて。
いのちを感じて生きることは、なんというか人を強く優しくたくましくするな、と感じていて。

今、しんどいところにいたり、悲しいことがあったり落ち込んでいたりしても。
あなたもわたしも、みんな、そんな素敵ないのちなんだと感じてほしかったのです。

いきている、そのことだけで素晴らしい。

どうか、誰かと比べたり、自分をさげすんだりすることなく、その素晴らしいのちのままにのびやかに生きてゆくことができますように。

こころの中に、あたたかな、やさしい光が灯るような時間になっていたらいいな、と思います。

秋ごろに、こんどは2作目の「うまれる ずっといっしょ」の自主上映会も開催したいなと思っています。ご興味ある方は、ぜひ、足をお運び頂けたら嬉しいです☆

ご縁に感謝をこめて。

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2015-05-15 | Posted in blogNo Comments » 

 

栄おばあちゃんからの手紙

 

先日、食をまん中にした素敵な住み開きの場に参加した際、映画「サマーウォーズ」の中で栄おばあちゃんが家族にあてた最期の手紙の話が出ました。

私もとても大好きで、大切にこころのまん中においている手紙です。

これを読むと、食べるってすごいことだなぁ。いのちを頂いていのちをつなぐんだもんな、とかいろいろな想いが湧いてきます。

嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても。

人は食べないと生きていけないから。

だからやっぱり、食卓には笑顔があって、立ち上る湯気をみんなで囲みながら「おいしいね」って笑えるような時間と空間であってほしい。

特に小さな子どもたちには。やっぱりそんな温かな食卓を届けたい。

もう少し、子どもの手が離れたら、やっぱりこども食堂やってみたいなぁ。

それが、食いしん坊を育ててくれた我が家の食卓の神様への恩返しかな、ともおもったりするのです。
そして、あったかく、子どもたちを迎え入れられるかわいいおばあになれるよう、年を重ねていきたいな、というのが夢の1つだったりもします^^

 

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★栄おばあちゃんの手紙★ (映画「サマーウォーズ」から)

「家族へ

まぁまずは落ち着きなさい
人間落ち着きが肝心だよ

葬式は身内だけでさっさと終わらせて
後はいつも通りに過ごすこと
財産は何も残してはしないけど
古くからの知り合いの皆さんが
きっと力になってくれるだろうから心配はいらない

これからもみんなしっかりと働いてください
それともし侘助(わびすけ)が帰ってきたら
10年前に出て行ったきり、いつ帰ってくるかわからないけど
もし帰ってくることがあったら
きっとお腹をすかせていることだろうから
うちの畑の野菜や葡萄や梨を
思いっきり食べさせてあげてください

初めてあの子に会った日のことを
よーく覚えている
耳の形がじいちゃんそっくりで驚いたもんだ

朝顔畑の中を歩きながら
今日からうちの子になるんだよ、って言ったら
あの子は何も言わなかったけど
手だけは離さなかった
あの子をうちの子にできる
私の嬉しい気持ちが伝わったんだろうよ

家族同士、手を離さぬように
人生に負けないように
もし辛いときや苦しいときがあっても
いつもと変わらず家族みんなそろって
ご飯を食べること

一番いけないことは
お腹がすいていることと
一人でいることだから

私はあんたたちがいたおかげで
大変しあわせでした
ありがとう
じゃあね 」

2015-04-10 | Posted in blogNo Comments » 

 

The sense of wonder

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たとえ山や森なんかの街から遠い自然の中に行けなくても。

身近にある公園や植物園なんかでも、十分。自然の中にいると大人も子供もなんとなく、生き生きとしてくるような気がするのです。

花には花の、草には草の、樹には樹の在り方があって、それぞれがそれぞれのペースで生きているから。

リミットがない、そんな感じが人を元気づけてくれるのかもしれません。

「沈黙の春」で著名な、レイチェル・カーソンは言います。

「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく驚きと感激に満ち溢れています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、ある時は全く失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」をさずけてほしいとたのむでしょう」と。

そして、「知る」ことは、「感じる」ことの半分も重要ではない、とも。

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本当にそうだなぁ、と思うのです。

特に小さい子どもたちを見ていると、やっぱり大事なのは実体験だと思うのです。

雪は冷たいとか土のにおいとか、葉擦れの音を聴くとかたくさんのものに触れて感じて世界と出会ってゆくこと。

その積み重ねの中から、子どもたちはたくさんのことを学び、大人以上に世界を感じて育ってゆく。だから、こどもたちにはたくさん外に出て、いろんなものを見て触って、感じてほしい。

そんな経験はきっと、大人になってからも世界を感じる力になると思うから。

世界は、狭くて広くて、多様で、同じようで。

でもみんな、そのいのちを一生懸命生きていて。たくさんのいのちの連なりで世界は形作られている。

その不思議さと奇跡を感じて自分のいのちも、まわりのいのちも慈しむことのできる感性豊かな人が増えればきっと、世界はもっと美しくなる。

 

2015-03-24 | Posted in blogNo Comments » 

 

旧暦大晦日の夜に

今日は大みそか、なので家じゅうを拭き掃除して空間をきれいにして。
新しい年をお迎えする準備をしています。・・・なんていうとビックリする人もいるかもしれませんね。

今日は大みそか、といっても、旧暦の大みそか。 そう、明日は旧暦の新年なのです。

そして、今年の旧暦新年は、新月だけでなく雨水も重なるなんとなくスペシャルな年明け。

昔から、年の初めはあらゆるものをリセットするタイミングと考えられていて、お節や年飾りなどで縁起を担ぐのも前の年をリセットして、年の初めに佳い運を招き入れるという意味があるのだそう。

新月も同じように、新しい物事を始めたり、リセットするのにぴったりの時と言われています。
旧暦1日は必ず新月と重なるようになっているから、明日は本当に1年に1度のスペシャルな新月なのです。

月の初めが、必ず新月というのも旧暦の素敵なところ。

七夕も、旧暦の七夕は必ず上弦の半月です。その半月が天の川を横切る様子が、月の船で彦星と織姫が会うために渡される、と考えたのですね。

昔の日本人の、月や太陽や、自然に寄り添う感性ってやっぱり素晴らしいなぁ、と思います。

♪時は流れているものを、刻むからこそ無理もでる~♪  と、うたっていたのはBIGIN.

時や季節の移ろいをただの標識にせずに、時や季節に寄り添って自然のリズムで暮らす生活をもう一度この手に取り戻すことができたら。
いま起きているいろんな問題の解決につながるんじゃないかと思ったりします。

だって、人間だって自然の一部なんだから。
自然から離れて暮らしを組み立てようとしたことに、なんだか大きな問題の根っこがあるような気がして仕方ないのです。

今夜は心静かにゆったりと過ごして。
素敵な大晦日と、新しい年を迎える準備、いかがですか?

私は、おひさまみたいにピカピカの金柑をことこと煮ながら、静かな時を持ちたいなと思っています。
kinnkann

素敵な大晦日の夜と、素敵な新年の一日を♪

2015-02-18 | Posted in blogNo Comments » 

 

初天神の日に

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1月25日は初天神で鷽替え神事が執り行われます。

わたしも、早起きして木鷽を授けていただきました。ちょっととぼけた表情が何とも愛らしい。

鷽替え神事とは「 平素私達が知らず知らずのうちに使う「嘘」を、天神さまの「まこと」に替えていただき、正しい幸運を招く意味から初天神の一月二十五日に、この鷽鳥を木彫りにした「鷽」を新しい「鷽」と取り替える神事が「鷽替え神事」です。
もともとは、神棚に供えておいた「鷽」を「替えましょう」「替えましょう」と呼びかけて、手から手へ、取り替えてゆき、凶事をうそにして、幸運に替えることを念願して行われたもので、江戸時代はじめから始まったと云われています。
現在では、凶事をうそにして幸運に替える開運、除災招福のお守りとして多くの方が受けられます。」(湯島天神HPから) というもの。今日はたくさんの幸運が生まれたのかな♪

 

1年に1度、今日だけ授与されるものなので境内は大賑わいでした。

たまたま取材に来ていたケーブルテレビの取材を受けて「鷽替え神事ってどういうイメージでしたか」との質問に「季節の節目、気持ちの節目だと思います」と答えて、ああ、そうだよなぁ、と自分で納得していました。

廻る季節で、自分のこころに区切りをつける。

こういうのってとても大事だと思うのです。1年に1度、今日は今日しかないと身に染みて思えること。

ハレとケとか。旬のものとか。季節の行事とか。

1年の中でたった1回その時にしか出会えないもの、こと、って実はたくさんある。

季節の行事にはむかしの人の智慧や経験がたくさんおりこまれていて、折々に大切なことにふと気が付かせてくれます。

慌ただしい毎日の中に、季節の行事を上手に取り込むだけでも、同じように繰り返す毎日の営みのゆたかさに気がつき感謝できるような気がします。

今年もまた、梅の花が見れること。サクサクと霜柱を踏みしめて歩くことができること。

どれもこれもあたりまえじゃなくて、ありがたいこと。

2015-01-25 | Posted in blog2 Comments » 

 

はじまりの月に

こんにちは。1年の始まりの月、どんなふうにお過ごしですか?

まだ私たちが季節の移り変わりと親しく過ごしていた時代、わたしたちの祖先は月を見上げ、月が新月から満月へと変化してゆく日数を数える方法として太陰暦いわゆる旧暦を用いて暮らしていました。

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その名残が、いまでも残るのが各月の呼び方です。

1月、2月、3月・・・と数字だけ味気なくで呼ぶよりも、睦月(むつき)、如月(きさらぎ)、弥生(やよい)・・・という呼び方のほうが季節に寄り添っている感じがして好きです。

新しい年の入り口、1月は睦月(むつき)。

新しい1年、新年を迎えるための大切な始まりの月。大切な家族や友人たちと睦みあうという意味合いを込めて睦月、と呼ばれるようになったのだそう。

始まりの月に、大切な家族や友人たちと、のんびりゆっくり過ごす。そして、なにより、ずっとずっと一緒にいる自分自身とゆっくり向き合い過ごすことは、とても大切なことだと思うのです。

大人になって、社会人になって。いつか、じぶんの気持ちや想いを心の奥底に閉じ込めていませんか?

1年のはじまり睦み月には、じっくりゆっくりと自分自身の心の奥底をみつめて向き合って。自分が本当に望んでいることはなんなのか、本当に感じているのはどんな想いなのかゆっくり感じて、慈しんで寄り添って。新しい1年を佳きものにしていく準備をしてみませんか。

きっと、とても素敵な1年になると思います。

 

そして、そんな睦み月にスタートしたこのblogとも仲良くお付き合いいただけたら幸せです。これからも、どうぞよろしくお願いします^^

 

2015-01-11 | Posted in blogNo Comments »